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『子供たち』 by バルテュス

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    「たとえばこの二枚の絵に見られる姿勢は、ふつう、心の奥底にある性の意識に働きかける。ところがよく見ると、絵には必ず、少女たちがこうした姿勢をとる口実が与えられている。<中略>従って、少女たちは自分の姿勢をまったく意識していません」
    「つまり少女は無垢であり、見る側の視線にだけ性の意識が介在している。その結果、絵を見る人は、自分の内部にある性の意識を外に引きずり出され、それと向かい合わざるを得なくなる。<後略>」
    (『世界名画の旅〈2〉フランス編2』(編:朝日新聞日曜版編集部 刊:朝日文庫)より)


    作品名:子供たち
        Chldren
    画 家:バルテュス
        Balthus
    美術館:パリ国立ピカソ美術館フランス共和国パリ
        Musee Picasso, Paris, France


    1937年の作。

    上に掲げた引用文の発言主は、デズモンド・モリス / Desmond Morrisです。その発言にある「この二枚の絵」とは、本作品と『パシアンス遊び / La patience (The Game Of Patience)』(こちらで紹介済み)をさしています。

    『パシアンス遊び / La patience (The Game Of Patience)』について綴った拙文を読み直しながら、上の引用文とを比較してみると、う〜、わたしは全然違う事を書いています。

    ただ、どうなのでしょう?
    上の引用文にある前提「少女は無垢」であると謂う視点は実際にはどうなのか。
    むしろ、そうあって欲しいと謂う観るモノの意識があって初めて、引用文にある様な視点が導き出されるのではないでしょうか。
    いや、多分、少女と性と謂う問題はそれらの作品には介在してはいるものの、実際にはもう少し複雑な様相を呈しているのではないか、と思われるのです。

    それよりも、わたしが気にかかるのは、彼等の不自然な姿勢です。ほんの一瞬だけ、こんな姿勢をする事はありえても、画家の為の姿勢、作品の為の姿勢にしては、とても辛く苦しいモノの様に思えます。
    本作品で謂えば、手前の少女の両腕は、自身の身体を支える為にぶるぶると震えているのかもしれず、とても読書どころではない様に思えます。それはうしろの少年にしても同じ事で、少女よりは遥かに自然な姿勢、楽な姿勢の様でありながら、手前に配置された左脚はきっと随分と辛い筈なのです [その両脚のあいだにあって居場所を喪いそうな、彼の幼い男性器の事を夢想したりもしてしまいます]。

    だから、ほんの一瞬のときが、作品として描かれる事によって永遠を勝ち取る、そんな理不尽とも謂える現象を捉えた様にも、わたしには思えるのです。

    下に掲載するのはハリントン・マン / Harrington Mannによる『4人の子供達による家族の肖像 / A Family Portrait Of Four Children』(邦題は拙訳です)。1915年の作品。


    るい rui, the creature 4 =OyO= * criticism : art * 09:21 * comments(0) * trackbacks(0) * -

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