『1. 水の落下、2. 照明用ガス、が与えられたとせよ』by マルセル・デュシャン
2020.02.08 Saturday
「この作品はフィラデルフィア美術館でぼくは現物をみている。アーチ状のレンガの枠で囲まれた農家の納屋の扉 (?) に小さい穴が2つ開いていて、そこから覗くと中には性器も露わな裸体が股を広げて手にランプを持って枯枝の中に横たわっており、背景には滝のある森の風景と青空が広がっているというジオラマに遭遇するのである。」
(横尾忠則 / Tadanori Yokoo著『名画 裸婦感応術 / How To Feel Female Nudes In Masterpieces』より)
(横尾忠則 / Tadanori Yokoo著『名画 裸婦感応術 / How To Feel Female Nudes In Masterpieces』より)
作 品:1. 水の落下、2. 照明用ガス、が与えられたとせよ
Etant donnes : 1° la chute d'eau, 2° le gaz d'eclairage . . .
画 家:マルセル・デュシャン
Marcel Duchamp
美術館:フィラデルフィア美術館/
アメリカ合衆国、フィラデルフィア
Philadelphia Museum Of Art,
Philadelphie, The United States Of America
1944年から1966年に制作された作品。
上にながながと、横尾忠則 / Tadanori Yokooの著書から引用したのは、著者が実際にフィラデルフィア美術館 / Philadelphia Museum Of Artに赴き、その作品を体験したからです。
わたし自身は、と謂えば、本作品を紹介する書物でしか知らないのです。だから、著者とは本作品からうける印象はまるで異なるモノなのです。
通称、『遺作 / The Final Work』と称されている本作を紹介する場合、掲載される画像は、「納屋の扉」ではなくて「性器も露わな裸体」です。拙稿でいえば、下に掲載した画像が紹介されるのであって、上に掲載した画像が紹介される事は、あまりありません。上の引用文を掲載してある書物も、下にある画像だけを掲載してあります。
だから、わたしは下の画像をもって『遺作 / The Final Work』と謂う作品を認識したのです。
そして、こんな事を思いました。
『彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも / La mariee mise a nu par ses celibataires, meme』(こちらで紹介済み)に描かれているのは、奇妙な物体ばかりであって、それ故にその作品は、具象画ともいえず、だからといって抽象画とも謂えません。敢えて謂えば、概念だけがそこにある様に思えます。
もしもその作品が当時の美術の最前線にあるのだとしたら、本作はそこから後退した様に見受けられます。何故ならば、作品名こそ難解な佇まいをみせてはいるモノの、そこにあるのは自然の景物に囲まれて横臥するひとりの裸婦だからです。
つまりその時の、わたしの認識は完全な具象画なのです。
でも、そうぢゃあないんだよ、と謂うのをしるのは、もっと後の事です。
本作は上の引用文にある様に、そこに出向かなければ体験出来ない様な作品です。
それは美術館とはなにか? を考えるきっかけにもなりましょうし、作品をみるとはなにか? を考えるきっかけにもなりましょう。
しかも、その作品を制作した人物は、既に物故しているのです。
ですが、わたしが本作品を知るのは、そこに出向かなければ出来ない筈の体験を裏返した様なモノです。最初に「性器も露わな裸体」をみて、その次に「納屋の扉」をみたのですから。
そして、その様に本作品を知る事が出来るのは、美術館と謂う現場を離れて、メディアを介在する事によって可能なのです。勿論、それには、作品発表から時間と時代を経る必要があるでしょう。
既に故人となった画家は、その様な現象が起きうる事を一体、どこまで認識していたのであろうか、とわたしは思うのです。
画家の死後、徐々に、「納屋の扉」から「性器も露わな裸体」を覗くだけでは決して窺い知る事の出来ない、本作品の実際が幾つも明らかになっています。例えば、本作品が置かれている床の紋様です。しかも、それは画家が生前に遺した遺志に基づいて公表されているモノなのです。
それ故に、上の様な疑問が生じているのです。
Etant donnes : 1° la chute d'eau, 2° le gaz d'eclairage . . .
画 家:マルセル・デュシャン
Marcel Duchamp
美術館:フィラデルフィア美術館/
アメリカ合衆国、フィラデルフィア
Philadelphia Museum Of Art,
Philadelphie, The United States Of America
1944年から1966年に制作された作品。
上にながながと、横尾忠則 / Tadanori Yokooの著書から引用したのは、著者が実際にフィラデルフィア美術館 / Philadelphia Museum Of Artに赴き、その作品を体験したからです。
わたし自身は、と謂えば、本作品を紹介する書物でしか知らないのです。だから、著者とは本作品からうける印象はまるで異なるモノなのです。
通称、『遺作 / The Final Work』と称されている本作を紹介する場合、掲載される画像は、「納屋の扉」ではなくて「性器も露わな裸体」です。拙稿でいえば、下に掲載した画像が紹介されるのであって、上に掲載した画像が紹介される事は、あまりありません。上の引用文を掲載してある書物も、下にある画像だけを掲載してあります。
だから、わたしは下の画像をもって『遺作 / The Final Work』と謂う作品を認識したのです。
そして、こんな事を思いました。
『彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも / La mariee mise a nu par ses celibataires, meme』(こちらで紹介済み)に描かれているのは、奇妙な物体ばかりであって、それ故にその作品は、具象画ともいえず、だからといって抽象画とも謂えません。敢えて謂えば、概念だけがそこにある様に思えます。
もしもその作品が当時の美術の最前線にあるのだとしたら、本作はそこから後退した様に見受けられます。何故ならば、作品名こそ難解な佇まいをみせてはいるモノの、そこにあるのは自然の景物に囲まれて横臥するひとりの裸婦だからです。
つまりその時の、わたしの認識は完全な具象画なのです。
でも、そうぢゃあないんだよ、と謂うのをしるのは、もっと後の事です。
本作は上の引用文にある様に、そこに出向かなければ体験出来ない様な作品です。
それは美術館とはなにか? を考えるきっかけにもなりましょうし、作品をみるとはなにか? を考えるきっかけにもなりましょう。
しかも、その作品を制作した人物は、既に物故しているのです。
ですが、わたしが本作品を知るのは、そこに出向かなければ出来ない筈の体験を裏返した様なモノです。最初に「性器も露わな裸体」をみて、その次に「納屋の扉」をみたのですから。
そして、その様に本作品を知る事が出来るのは、美術館と謂う現場を離れて、メディアを介在する事によって可能なのです。勿論、それには、作品発表から時間と時代を経る必要があるでしょう。
既に故人となった画家は、その様な現象が起きうる事を一体、どこまで認識していたのであろうか、とわたしは思うのです。
画家の死後、徐々に、「納屋の扉」から「性器も露わな裸体」を覗くだけでは決して窺い知る事の出来ない、本作品の実際が幾つも明らかになっています。例えば、本作品が置かれている床の紋様です。しかも、それは画家が生前に遺した遺志に基づいて公表されているモノなのです。
それ故に、上の様な疑問が生じているのです。