『潮騒』 by 三島由紀夫
2007.12.09 Sunday
三島由紀夫 / Yokio Mishima、彼の代表作を取り上げるとしたら『金閣寺』や『憂国』や『仮面の告白』の方が相応しいのかもしれないけれども、この作品を紹介します。
『The Sound of Waves』(left side) & 『潮騒』(right side)
by 三島由紀夫 / Yokio Mishima
書名:『潮騒』
英題:"The Sound of Waves"
著者:三島由紀夫 / Yokio Mishima
発行:新潮文庫(新潮社)
自然に恵まれた離島に暮らす、幼い漁師と幼い海女の恋愛を描いた作品。
嵐の一夜、お互いの感情を確かめあったふたりは、それぞれに課せられた試練を乗り越えて、結ばれます。
素朴で純粋だからこそ言える大胆な激しい、少女の発言を真っ正直に受け止める青年の慎ましい行動が、(およそ三島由紀夫 / Yokio Mishima作品らしからぬ)感動的な青春小説です。
1964年には吉永小百合(初江役)& 浜田光夫(新治役)での『潮騒』(森永健次郎監督作品)、 1975年には 山口百恵(初江役)& 三浦友和(新治役)での『潮騒』( 西河克己監督作品)を含め、過去5回も映画化されています(ここで紹介した2作品は以前、偶々CS放送で観ました)。
映画だと、物語のクライマックスである例の「その火を飛び越して来い。その火を飛び越して来たら」というシーンがあるので、どうしてもヒロイン初江に焦点が当ってしまいます。しかし、小説『潮騒』を詠む限りにおいては、主役はあくまでも新治だと思います。「その火を飛び越して来い。その火を飛び越して来たら」というシーンに於いても物語を語る視点は新治のもので、本来ならば描写されるべき「その火を飛び越して来い。その火を飛び越して来たら」と叫んだ初江の内面は一切描かれていません。
男性にとって、女性の方から「その火を飛び越して来い。その火を飛び越して来たら」と言われて一線を超えるのは、夢とか願望なんでしょうか?
でもこの物語では一線を超えた時点でさらにもうひとつ超えようとしたら、女性からダメだしされてしまいます。
禁欲的とも言えるし、マゾヒスティックとも言えるし、唯一この点において、三島由紀夫 / Yokio Mishimaならではとも言えます。
英題:"The Sound of Waves"
著者:三島由紀夫 / Yokio Mishima
発行:新潮文庫(新潮社)
自然に恵まれた離島に暮らす、幼い漁師と幼い海女の恋愛を描いた作品。
嵐の一夜、お互いの感情を確かめあったふたりは、それぞれに課せられた試練を乗り越えて、結ばれます。
素朴で純粋だからこそ言える大胆な激しい、少女の発言を真っ正直に受け止める青年の慎ましい行動が、(およそ三島由紀夫 / Yokio Mishima作品らしからぬ)感動的な青春小説です。
1964年には吉永小百合(初江役)& 浜田光夫(新治役)での『潮騒』(森永健次郎監督作品)、 1975年には 山口百恵(初江役)& 三浦友和(新治役)での『潮騒』( 西河克己監督作品)を含め、過去5回も映画化されています(ここで紹介した2作品は以前、偶々CS放送で観ました)。
映画だと、物語のクライマックスである例の「その火を飛び越して来い。その火を飛び越して来たら」というシーンがあるので、どうしてもヒロイン初江に焦点が当ってしまいます。しかし、小説『潮騒』を詠む限りにおいては、主役はあくまでも新治だと思います。「その火を飛び越して来い。その火を飛び越して来たら」というシーンに於いても物語を語る視点は新治のもので、本来ならば描写されるべき「その火を飛び越して来い。その火を飛び越して来たら」と叫んだ初江の内面は一切描かれていません。
男性にとって、女性の方から「その火を飛び越して来い。その火を飛び越して来たら」と言われて一線を超えるのは、夢とか願望なんでしょうか?
でもこの物語では一線を超えた時点でさらにもうひとつ超えようとしたら、女性からダメだしされてしまいます。
禁欲的とも言えるし、マゾヒスティックとも言えるし、唯一この点において、三島由紀夫 / Yokio Mishimaならではとも言えます。