わたしがここにきたのは別れを告げるためだった
約束の時間は疾うにすぎ
中天にあった陽はどんどんと傾いてゆく
わたしの影がのびてゆくに従って、
まぶしい陽射しがわたしの視界を奪いはじめる
くろいおおきな流れがわたしの足許にある
音をたてるまでもなく静かに流れゆく水に耳を傾けていると
ながい時間、そこにいたせいだろう
おおきな紙の束をかかえた腕の感覚が麻痺している
この書類がすべてだった
逢うべきひとの、わたしが知りうるすべてがある
たとえ、綴られているなかみは薄くとも、
わたしにとってそれはおもい
さきほどからひとり、川縁におんなが腰を屈めている
水の流れに彼女が落とす視線のすぐ脇には一台のベビー・カー
母でもある彼女は、そのあるじにはいっかな注意をはらうこともなく
静かなくろい水をじっと凝視めている
憶い出した様に唇から放たれるその口調はうつろで
決して誰に語っているわけでもない
ベビー・カーのなかにあるのは大きな繭だった
まっかな産着の中にある紡錘はかがやくようにしろく
まるで寝返りを打つかの様に蠢くたびに
産毛であるかのごとき、幾筋ものしろいいとがほつれて風に舞う
陽のひかりを受けた絹糸は幾条も、虹色に染まって輝いている
あらかじめ手渡されていた脚本を読むようにわたしは
抱えていた書類を川面にむけてはなつ
風が強ければそれは美しい光景になったかもしれない
だが、はなたれた紙の殆どは、舞うまでもなく、無様に墜ちてゆく
そして黒い水に浸されて、抗いも出来ぬままに、浸食されてゆく
海まできっと辿り着かない
わたしの記憶の底に、ずっと沈殿したままであるように
腐る事も許されずに、そこに記されたことだけが
黒い川の汚泥のなかにいつまでもあり続けるのだ
そんなおもいに立ちすくむわたしの背後を
手に手をとった老夫婦がひとくみ
無言のまま、ゆっくりと通り過ぎてゆく
今に夕陽も沈むだろう